5.14.2013

語学は楽しい

5年ぶりに日本に帰国した際、幸運にも仕事に恵まれたのだが、直属の上司はMBA保持者だった。彼も北米から帰国して間もなかったので、仕事の合間に内輪ネタでよく盛り上がったものだ。その一つが海外に住んでしまえば、いつの間にか外国語が身につくと言う迷信。ワタシが、「住むだけではまず身につかない。外国語に慣れた気になっているかもしれないが、実は狭い行動範囲の中で不自由を感じながら生活するのに慣れるだけだ。」といった内容を生意気にも述べると、涙を流しながら笑ってくれた。初の長期海外生活でMBAを取得した彼なりに思うところがあったのだろう。

「ガラスの家に住む者、石を投げるコト勿れ」という諺がデンマ語にもある以上、ここは我が身をつねってヒトの痛みを知っておくべきだろう。最近初心をすっかり忘れているので、語学についてあれこれ書いてみようと思う。

ワタシがデンマ語を学ぶに当たって心掛けたルールは3つ(これに「3つだけだ」と付け足すとジョブスっぽくてカッコいい)。

最初に、 ・気負いすぎないコト。
そして、  ・お金をかけるコト。
最後に、 ・時間をかけるコト。

最初の「気負いすぎないコト」は、簡単に言うと「愛着」。ワタシは独語で失敗したのだが、好きで、好きで、好きが故に出来ない自分との差に苦しむナルシスト的な愛で大変残念な結果になった。この言語への愛着は「(特別な場合を除き)言語が出来なくても死にはしない。ただ出来ると人生の色に深みが出る」程度でオッケー。ワタシはデンマ語なんて別に好きでも何でもないのだが、出来ればこちらでの人生はラクになるのは間違いないので大事に、大事に扱っている(まぁ、乱雑でも良いからもっと使えという意見もあるが)。

次の「お金をかけるコト」は、テキスト、辞書を揃えましょうというコト。図書館で借りたテキストをやり通したコトは一度しかないが、自分の財布を痛めて買ったテキストは大抵やり終えるのだから不思議だ。とにかく文法はテキストでキチンと習った方が習得も早い。そうは言っても自称文法アレルギー患者は結構いる。そんなヒトには「(参考書ではなく普通の)本を20冊くらい原書で読んで、自ら文法を見い出すか、テキストの力を借りて文法を学ぶか?」訊ねてみよう。テキストは優れている。先人の恩恵は進んで受けるべきである。

辞書も確実に母国語と概念を結びつけるのに必須だ。「周りに訊ねれば良いのでは?」との意見もあるだろう。これは語学学校、もしくはチューターなどには許されても、その他の場所での過度の使用はおすすめしない。周りの人間はアナタのお世話係ではない。嫌われないように気を付けよう。中級のレベル位になると、よく「ペーパーバックは辞書を引かずに読みましょう」 などとあるが、賛同出来ない。単語に躓く度に辞書を引く癖のあるヒトには有効だろうが、そのレベルになると文脈から知らない単語の意味を推測することも出来るだろうし、何となく読めた気になってもイザ日本語で説明しようとしても単語が思いつかないからだ(日本語で説明しなくても結構!ワタシは原書でのリズムや臨場感を味わいたいのだ。という方はご自由に。ただし数年後「臨場感」と言う単語が思い出せなくなってもワタシは責任を持ちません。嗚呼、あの頃のワタシに教えてあげたい)。せっかく推測したのだから、この単語が正しいかどうかの確認は是非行うべきだ。正しかったら喜びとなるし、それ以上に認識の擦り込みが出来、記憶が強固となるからだ。

最後に「時間をかけるコト」。誰にだって経験があるだろう。あの一夜漬けのテスト終わった後、何も憶えていなかった学生時代。覚えるのが早かったモノは忘れるのも早い。目指すはテスト前の一夜漬け的な短期的な記憶より長期的な記憶。何をどの頻度でどのレベルまでモノにするか。この辺の匙加減は、そのヒトの置かれた状況や目指すレベルやそこに到達するまでの時間的余裕等、ヒトそれぞれだろうけれど、一通りの文法を終えた後は語彙力アップの道が待っている。これは皆に当てはまる。何故ならヒトは知らない単語は文面上では読めるかもしれないが、聞き取れないからだ。

語学習得に近道などない。自らの手と目と耳を使い、マネて、アレンジして、使い込んで、モノにするしかない。自転車操縦に例えると、文法と語彙という二輪のガタガタな(というより四角くて全く前に進まない)車輪を漕ぎ出すことから始まる。ガタガタなりに漕ぎ続けると徐々にリスニングやスピーキングなど、始めは出来なかったコトを繰り返すことにより、それが少しずつ出来るようになって行く。苦手な部分を一つずつ克服していくうちに四角かった車輪が五角形に、六角形にと角度が鈍くなり、徐々に走りやすくなる。確実に語彙を増やし、句動詞を覚え、イディオムを使えるようにしていくうちに更に角が取れ、車輪は七角形になり、八角形になって行く。得手不得手はヒトそれぞれだから、踏むステップも異なる。あるヒトは発音を矯正しなければいけないかもしれないし、シャドーイングで四苦八苦するかもしれない。ビジネスレベルのライティングよりエッセイが苦手というヒトもいるだろう。語学以前に「論理的に考える」という基礎から始めなくてはいけなくて、もう失うプライドがない程の挫折感を味わうかもしれない(えっ?ワタシだけ?)しかし弱点をクリアして行くうちにようやく車輪が円形に近付き、自転車がスムーズに進むようになる。颯爽と風を感じ周りの風景を楽しみながらサイクリングロードを走るように、社会・文化的背景をとらえた上で、ユーモアを交えながら笑い、言語を操っている状況を楽しめるようになる日が必ず来る。

そしてこのカスタマイズされた語学と言う自転車は一生アナタのモノだ。会社を立ち上げて波に乗せて売ることは出来ても、自転車だけを売ることは出来ない。運が良ければ自転車を付加価値としてアナタ自身が売れるだろう。事業が失敗して会社を畳まなくならなくなることはあっても、誰もアナタの自転車を奪うことは出来ない。くだらない学校の相対評価や理不尽な職場の業務査定なども存在しない。メインテナンスした自転車の調子が良いように、やればやるだけ自分に返ってくる。スポーツとよく類似されるがアスリートのように選手生命が短い訳でもない。一生現役でいられるのだ。

うーん、何だか黒田節っぽくなってしまった。手元に先生の著書がないので確認出来ないのが残念なトコロだが、語学は楽しいのだ。



そうそう、究極のルールに以下があるが、これは杉田先生っぽくて好きだ。

・学ぶコトを決して止めないコト。




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